山縣有朋【山県狂介・山県小輔】~日本陸軍の父でもある長州藩出身の藩閥政治家


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 山縣有朋(やまがたありとも、山県狂介、山県有朋、山県小輔)は、1838年、萩城下近郊にある阿武郡川島村(現在の山口県萩市川島)にて誕生した。
 父は、長州藩の蔵元附中間・山縣有稔で、その長男として生まれたのだ。
 幼名は辰之助、通称は山縣小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。
 5歳で母・山縣松子を亡くしたが、足軽より低い身分の家ながら将来は槍術で身を立てようと、槍の稽古に励んでいたと言う。
 このころ友人・杉山松助らに松下村塾への入塾をすすめられたが「吾は文学の士ならず」として、当初は辞退したとも伝わる。

 1858年7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの一人として、杉山松助・伊藤俊輔らとともに上京した。
 京では尊皇攘夷派の久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化され、9月に萩に戻ると、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾した。
 しかし、まもなく吉田松陰は投獄された為、数カ月間程度の短い師弟関係であったが、山縣有朋は大きな影響を受けたと、生涯「松陰先生門下生」と称し誇りにしている。

 23歳の時に父・山縣有稔(ありとし)が死去。

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 1863年、士雇に列すると高杉晋作が創設した奇兵隊に参加して、武芸や兵法にて頭角を現し、上海に渡航した高杉晋作に代わって率いている。
 高杉晋作は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤俊輔や山縣有朋などが才能を発揮して、のちに明治政府で活躍するきっかけを作ったと言え、長州藩からは足軽以下の平民と大差ない身分の志士を輩出した。

 1863年12月、高杉晋作が教法寺事件の責を負って、総督の任を解かれると3代目総管・赤禰武人とともに奇兵隊の軍監に就任した。
 のちに赤禰武人が出奔した後は事実上実権を握っている。

 1864年、四国連合艦隊との交戦で負傷した際、武器と兵制の改革の必要性を痛感して尊王攘夷論から開国論に転じた。
 1865年、長州藩の俗論派(佐幕派)と正義派(倒幕派)が激突した大田・絵堂の戦いでも奇兵隊の軍監として活躍。

 1866年、奇兵隊の四代目総管に就任し、長州征討で高杉晋作と共に活躍し小倉城を攻略。戊辰戦争では北陸道鎮撫総督の参謀として奇兵隊を率い、長岡攻略戦にて河井継之助らと戦ったが苦戦。
 その後、会津征討総督の参謀として会津攻めなどを指揮した。指揮官としてはなかなか優秀で、特に補給線などの軍政面に優れていたと言う。

 1868年、29歳の時、かねてより結婚を申し込んでいた、大庄屋である石川良平の娘・石川友子 (山県友子) 16歳と結婚。
 2人の間には余一(長男)、春一(次男)、稔子(としこ)(長女)松子(次女)、信子(三女)、梅子(四女)、朋輔(三男)の、三男四女が生まれたが、次女・松子を除いて全員幼いうちにこの世を去っている。

 明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石となっている。

 明治2年(1869年)、ヨーロッパに軍事視察の為渡航し、各国の軍事制度を視察した。翌年にアメリカ経由で帰国すると、暗殺された大村益次郎の後継者として西郷隆盛の協力を得て陸軍大輔に就任し、明治政府の軍制改革を行い徴兵制を取り入れた。

 江戸時代までは平民・農民には兵役義務はなく、軍事・兵役は武士(士族)の仕事であるという認識が一般的だった為、徴兵制導入に対して国民は激しい拒絶反応を起こしたのは言うまでもない。
 ただし長男・養子などは徴兵免除された為、徴兵対象者の8~9割は免除となり、実際の入隊は貧農の次男・三男など3~4%に過ぎなかったとさける。

 明治5年(1872年)、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせた。(山城屋事件)。
 山城屋の証拠隠滅工作により山縣有朋には司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年(1873年)4月に陸軍大輔を辞任。
 しかし、山縣有朋に代わる優秀な人材がなく、1873年6月に初代の陸軍卿として復職すると、参謀本部の設置や軍人勅諭の制定に携わった。

 明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では官軍の事実上の総指揮を執ったため、薩摩派と長州派対決の様相を呈した。
 錬度や士気で優る、西郷隆盛の薩摩勢に対して、装備と物量、圧倒的な兵力を持って鎮圧。9月に城山の戦いでは、最後に西郷隆盛へ自決を勧める書状を送った。

 山縣有朋が自ら構想を考えた東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園などの日本庭園を残したと言う側面も見える。
 伊藤博文が憲法調査のため渡欧すると、その留守を預かって参事院議長となり、政治活動を開始。

 明治16年(1883年)、内務卿に就任すると、市制・町村制・府県制・郡制を制定。

 明治21年(1888年)12月2日から再びヨーロッパ各地へ視察旅行に出掛けた。
 そのため、翌・明治22年(1889年)2月11日、宮中での大日本帝国憲法発布式典が行われた際には出席していない。
 伊藤博文も遊学しており、当時「シュタイン詣で」とさえ言われるほど、山縣有朋ら日本政府の要人らはウィーンの憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインを訪れた。
 他には、ルドルフ・フォン・グナイスト、ヨハン・クルメツキ、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとにも訪問している。10月2日、日本に帰国。

 明治22年(1889年)、長州出身の陸軍軍人としては初めて内閣総理大臣に就任(第1次山縣内閣)。
 日本最初の帝国議会に臨むと、超然主義をとり軍備拡張を進めた。
 第1回帝国議会の施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保の為、軍事予算の拡大が必要であると説いている。
 明治23年(1890年)10月30日に教育勅語を発布。明治24年(1891年)には辞任すると元老に就任し、伊藤博文と並ぶ長州出身の「元老政治」を行った。

 1896年、ロシア皇帝戴冠式に出席し、ロバノフ外相と朝鮮問題に関する協定を結んで、大陸進出の足がかりを作っている。

 日清戦争では、56歳にもかかわらず第一軍司令官として自ら戦地に赴き、作戦指揮を執った。
 「敵国は極めて残忍の性を有す。捕虜となるより潔く一死を遂ぐべし」と訓示している。
 配下の第5師団が平壌を陥落させるなど戦果はあげたが、山縣有朋自身は体調を崩して、明治天皇から「病気療養」という勅命で戦線から呼び返されている。

 明治31年(1898年)、第2次山縣内閣発足。参謀総長、枢密院議長なども務めた。

 明治32年(1899年)、文官任用令を改正。 文官懲戒令、文官分限令を公布した。

 明治33年(1900年)3月10日、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた「治安警察法」を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めている。

 続いて3月29日には、衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を地租または国税15円以上から10円以上に緩和すると共に、小選挙区制(一部完全連記制の中選挙区制)から大選挙区制(一部小選挙区)に改めた。
 市制を執行している自治体は、それぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。
 また、記名投票を秘密投票に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。山縣有朋は政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対している(超然主義)。

 小選挙区制は強大な政党が生まれやすい(デュヴェルジェの法則)ことから、死票が少なく中小政党でも議席を獲得しやすい大選挙区制に改め、小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があったようだ。
 また政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊しつつ、中央政府や主要都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いもあったと考えられている。
 もっとも、小選挙区が残ったこと、政党(政治)そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも議席は大政党への集中が進んだ。
 1900年10月には辞任。

 以後、陸軍・内務省・宮内省・枢密院等にまたがる「山縣系官僚閥」を形成し、陸軍出身では桂太郎や寺内正毅、官僚出身では清浦奎吾や平田東助らの後ろ盾となって政治に関与して行き「日本軍閥の祖」の異名をとった。

 1904年(明治37年)の日露戦争でも満洲軍総司令官就任を希望したが、大山巌が就任。明治以降の日本史上で、軍人として前線に立った首相経験者は山縣有朋だけである。
 日露戦争では参謀総長兼兵站総監として日本を勝利に導いたこと、伊藤博文が暗殺された事も加わり、明治末期から大正初期にかけて、山縣有朋の発言力は増大したが、同時に反感反発も大きくなり、国民からも嫌われた。

 山縣は、軍事専門家としての見地から対外協調の重要性を認識しており、大正4年(1915年)の対華21ヶ条要求を批判。
 山縣有朋が政党を嫌った理由として、対外硬派が政党に多く存在したことが挙げられる。
 軍部大臣現役武官制の制定も、政党政治家が無謀な戦争に走ることを避けるためと考えられている。

  だが、桂太郎の自立、大正デモクラシーや社会運動の高揚、第1次世界大戦など、時代の変化に山縣有朋はついていけなくなり、桂太郎の死後は寺内正毅、清浦奎吾らも独自の道を歩み出した。
 そのような中で、日本は政党内閣の時代を迎え、やがて宮中某重大事件を巡る対応の悪さもあって、山縣有朋の政治的な権威は大きく失墜した。

 このころまでに日本は著しい経済成長を遂げており、国内総生産は1885年から1920年までに3倍に成長。
 大戦景気に沸いた第一次大戦後には債務国から債権国へ、輸入超過国から輸出超過国へと転換した。
 さらに戦勝国として南洋諸島のドイツ権益を引き継ぐなど、日本の国際的地位も上昇したが、山縣有朋はむしろ日本の急成長によって欧米人(特にアメリカ合衆国)が黄禍論をどんどん強めていることに不安に感じていた。
 第一次世界大戦中には「黄色人種に対して白色人種が同盟を組んで対抗してくるような事態を防ぐため、何か手段を講じることは非常に大切である」との記載も見られる。

 1920年、宮中某重大事件では、皇太子・裕仁親王(昭和天皇)の妃選定で、皇太子妃・良子女王(のちの香淳皇后)の家系に色盲の遺伝があるとして反対。
 当の裕仁親王本人の意向で婚約は破棄されなかったが、皇太子の結婚にまで口を出すのかと、政治家・右翼からも猛反発を買い、枢密院議長の座も退くことになった。

 晩年は原敬を総理大臣に擁立したが、原敬が暗殺された3ヶ月後の大正11年2月1日、失意のうちに小田原の別邸・古稀庵で逝去した。83歳没。

 山縣有朋の葬儀は日比谷公園にて国葬となったが、参列したのは陸軍や警察・内務省の関係官僚ら義務的に参加した者が殆どで、一般の参列者はほとんどいなかった。
 山縣有朋の直前に病没した大隈重信の葬儀では、国葬ではなく「国民葬」とされたが、多数の民衆が集まったのとは対照的で、国民、政治家、皇室から評判の悪い山縣有朋の国葬は正に「民抜きの国葬」と揶揄された。

 山縣有朋の死後、元老は軍歴のない松方正義と西園寺公望のみとなり、日本政府と軍を調停する機能を大きく失った。

 死後の1921年(大正10年)10月27日、バーテンバーテンの密約で長州閥追い落としを目論んだ東條英機少佐らが職権を濫用し、陸軍大学校の校長となると山口県出身者を入学させない方針を取り、その後の日本陸軍は暴走して行く事になる。

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  1. 2015年 5月 01日

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